最後の記憶のかけらが、レイの手のひらから、ふわりと空へ舞い上がった。
十二の光が重なり、夕凪町を優しく照らす。
坂道に並ぶ家々。
海に揺れる夕焼け。
風にそよぐ紫陽花。
何度も歩いた町なのに、今はどの景色も、初めて見るもののように輝いていた。
源さんの豪快な笑い声。
喫茶店のマスターが淹れてくれたコーヒーの香り。
パン屋のおばあちゃんの、優しい笑顔。
ミユの描く美しい絵。
ナツたちと駆け回った坂道。
ひとつひとつが、レイの胸に残っている。
そして、足元には三毛猫のコハク。
琥珀色の瞳が、じっとレイを見上げていた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。
町のみんなへ。
コハクへ。
それとも、ずっと何かを探していた自分自身へ。
レイは顔を上げた。
空には、あの巨大な光の時計盤が浮かんでいる。
針は、九十秒目の終わりを指していた。
あと一秒。
この夕暮れが終わる。
そう思った、その瞬間。
時計の針が、ゆっくりと動いた。
一秒。
九十秒の、その先へ。
九十一秒目。
あり得ないはずの時間が、確かに刻まれた。
レイは息をのんだ。
時計盤から、まばゆい光があふれ出す。
風が止まり、波の音が遠のいた。
世界のすべてが、その一瞬だけ、息をひそめたようだった。
「……九十一、秒……?」
レイの声が、夕暮れに溶けていく。
コハクが、小さく鳴いた。
次の瞬間、時計盤に細いひびが走った。
光の時計盤は、音もなく砕けていく。
無数の光の粒が空へ舞い上がり、夕焼けの向こうへ溶けていった。
止まっていた風が、再び吹き始める。
海の波が寄せては返す。
遠くで、列車の汽笛が聞こえた。
どこかで誰かが笑った。
世界は、終わらなかった。
止まっていた時間が、ようやく先へ進み始めた。
レイは、しばらく空を見つめていた。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で、何かがほどけていく。
ずっと探していたもの。
どうしても思い出せなかったもの。
それは、遠い場所にある宝物なんかじゃなかった。
自分がかつて暮らしていた、この町。
一緒に笑ってくれた人たち。
そして、幼い自分が交わした約束。
「……そっか」
レイの頬を、涙が伝った。
十年前の記憶が、少しずつ戻ってきた。
✦ ✦ ✦
十年前。
七歳だったレイは、この町で暮らしていた。
朝になると、家を飛び出して坂道を駆け下りた。
海を眺めたり、道端の花を見つけたり、町の人たちに声をかけてもらったり。
毎日が楽しかった。
そして、いつもそばには小さな三毛猫がいた。
琥珀色の瞳をした、気まぐれな猫。
レイが座れば隣にやってきて、レイが走れば小さな足で追いかけてくる。
寂しいときには、何も言わずにそばにいてくれた。
その猫に、レイは「コハク」と名前をつけた。
けれど、ある日。
レイは、この町を離れることになった。
大好きな町。
大好きな人たち。
大好きなコハク。
離れたくなかった。
それでも、幼いレイにはどうすることもできなかった。
列車に乗る日。
坂の上で、レイは泣いていた。
「また、ここに帰ってくるね」
涙をぬぐいながら、そう言った。
「十年たったら、きっと帰ってくるから!」
小さな指をぎゅっと握りしめて、約束した。
コハクは、レイの足元にすり寄った。
レイはしゃがみ込み、その体をそっと抱きしめた。
「だから、待っててね」
コハクは、答えるように喉を鳴らした。
やがて列車が動き出す。
窓の向こうで、町が少しずつ遠ざかっていく。
レイは、町が見えなくなるまで手を振り続けた。
その日から、十年が過ぎた。
新しい町で、新しい友達と出会い、新しい日々を過ごした。
楽しいことも、悲しいこともあった。
時間がたつにつれて、幼い日の記憶は少しずつ遠くなっていった。
あの日の約束も。
一緒に遊んだ人たちの顔も。
海へ続く坂道も。
忘れようとしたわけではなかった。
ただ、思い出せなくなっていただけ。
それでも、心のどこかには残っていた。
理由のわからない懐かしさ。
ふとした瞬間に感じる寂しさ。
どこかへ帰りたいという、小さな気持ち。
そして十七歳になった今。
レイは、古い列車の切符と一枚のスケッチに導かれるように、夕凪町へやってきた。
自分が何を探しているのかも、知らないまま。
それでも、心は覚えていたのかもしれない。
ここが、自分の帰る場所だということを。
「……ただいま」
その言葉を口にした瞬間、レイの頬を、また一筋の涙が伝った。
コハクが、足元にすり寄ってくる。
レイはしゃがみ込み、小さな体をそっと抱きしめた。
「ただいま、コハク」
コハクは、昔と変わらない声で鳴いた。
レイは泣きながら笑った。
十年分の時間を、取り戻すことはできない。
幼い日の自分に戻ることもできない。
それでも。
もう一度、ここへ帰ってこられた。
もう一度、コハクに会えた。
それだけで、十分だった。
✦ ✦ ✦
✦ 17歳のレイが描いたコハクのスケッチと、新しい『夕凪町行き』の切符
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
レイは、ゆっくりと目を開けた。
窓の外から、海鳥の声が聞こえる。
遠くでは、列車の走る音。
頬に触れる潮風は、少しだけ冷たくて、気持ちがよかった。
「……朝?」
レイは上半身を起こした。
机の上には、古い列車の切符。
その隣には、琥珀色の瞳をした三毛猫のスケッチが置かれていた。
七歳の自分が描いた、少し不器用な絵。
レイは、それをそっと手に取った。
「……よく描けてるじゃん」
小さく笑った。
十年前の自分に、教えてあげたい。
ちゃんと帰ってこられたよ、と。
窓の外から、聞き慣れた鳴き声がした。
「ニャー」
玄関先に、コハクが座っていた。
朝日を浴びながら、こちらを見上げている。
レイは思わず笑った。
「ふふっ。もう、待たせないよ」
扉を開ける。
潮風が、頬を優しく撫でた。
坂の下から、誰かが手を振っている。
「レイちゃーん!」
マユの声だった。
その隣には、ナツとリク。
少し離れたところに、ミユもいる。
「おーい、レイ! 朝から元気だねえ!」
源さんの声が聞こえた。
パン屋のおばあちゃんが店先で手を振り、喫茶店のマスターは店の扉を開けていた。
いつもの町。
いつもの人たち。
けれど、昨日までとは少しだけ違って見えた。
レイは胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。
「今、行く!」
坂道を駆け下りる。
コハクも、軽やかにあとを追いかけた。
「レイちゃん、今日はどこ行く?」
マユが駆け寄ってくる。
「海まで競争しようぜ!」
ナツが笑う。
「ぼくも行く!」
リクも負けじと走り出した。
レイは三人の顔を見渡した。
その向こうには、穏やかな海が広がっている。
青い空。
揺れる紫陽花。
坂道を吹き抜ける潮風。
昨日までと同じ景色。
それなのに、すべてが昨日よりも愛おしかった。
レイは笑った。
「うん。今日は、みんなと行きたいところがあるんだ」
「どこー?」
マユが首をかしげる。
レイは少しだけ考えてから、答えた。
「……この町の、知らないところ」
「えーっ! レイちゃん、まだ知らないところあるの?」
「うん。まだまだ、いっぱいあるよ」
レイは海の向こうを見つめた。
これから出会う景色。
これから知っていく人たち。
まだ知らない物語。
そして、明日。
もう、時計の針に急かされることはない。
だからこそ、今度は自分の足で歩いていこう。
一秒ずつ。
一日ずつ。
大切な人たちと、一緒に。
✦ ✦ ✦
あの日、世界が終わるまで、あと九十秒だった。
けれど、九十秒が過ぎても、世界は終わらなかった。
その先には、誰も知らなかった九十一秒目があった。
それは、奇跡だったのだろうか。
それとも、忘れていた約束が、レイをここへ連れ戻したのだろうか。
本当の答えは、誰にもわからない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
人は、大切なものを忘れてしまうことがある。
大好きだった場所も。
一緒に笑った人の顔も。
あの日、自分が交わした約束も。
それでも、一緒に過ごした時間まで、なくなってしまうわけじゃない。
何気ない会話。
帰り道に見た夕焼け。
誰かがそっと差し出してくれた手。
そのときは気づかなかった小さな出来事が、いつか、自分を支えてくれることがある。
だから、今日という日を大切にしてほしい。
大好きな人と笑えること。
帰る場所があること。
明日も会いたいと思える人がいること。
それは、当たり前のようでいて、本当はとても特別なことだから。
九十秒は、終わりのための時間じゃなかった。
忘れていた自分を取り戻し、大切な人たちとのつながりに気づき、もう一度、未来へ歩き出すための時間だった。
そして九十一秒目からは、レイ自身が選んでいく時間。
誰かに決められた結末ではなく。
自分の意思で、一歩ずつ進んでいく未来。
空は青く、海はどこまでも広がっていた。
コハクが、小さく鳴いた。
「うん、行こう」
レイは笑って、みんなのもとへ駆け出した。
世界は、今日も続いていく。
明日も、きっと。
あなたなら、この先の時間をどう生きますか?
『世界は、あと90秒。』
✦ TRUE END ✦